第32回全日本歯科医師テニス大会宮城大会
 
第32回全日本歯科医師テニス大会宮城大会、震災の地、仙台にて開催
全日本歯科医師テニス連盟によるテニス大会は長い伝統のもとに開催されてきました。私が東京、神戸、埼玉、長野のそれぞれの全国大会に参加するたびに宮城県でもそろそろ全国大会をしてはどうかと声を掛けられてきました。

平成21年の第29回全日本歯科歯師テニス大会長野大会開催の後、宮歯テニスクラブのメンバーと協議し、開催のゴーサインが出たので早速長野大会の事務局に大会誘致の意思を表明しました。その後、平成22年第30回全日本歯科医師テニス大会は福岡県で行われました。宮歯テニスクラブの会長でもあり、今まで全国大会に多く参加し、事情に詳しい私に全国大会の実行委員長を任されました。満を持して、平成23年第31回全日本歯科医師テニス大会を宮城県で開催すべく準備をしている最中に、あの忌々しい東日本大震災に見舞われ、途中で頓挫した経緯がありました。捲土重来を期して、被災地宮城県の復興に微力ながらも貢献できる事を期待して第32回全日本歯科医師テニス大会宮城大会は、平成24年9月22日(土曜)、23日(日曜)の二日間にわたり仙台市泉区の泉総合運動場泉庭球場とシェルコムせんだいを会場として開催される運びとなりました。

22日の第一日目は、今年の夏の猛暑が続き炎天下でのテニス大会を予想しておりましたが、暑さ寒さもお彼岸までと申しますとおり、秋晴れのテニス日和でした。南は鹿児島から北は青森までの全国の歯科医師テニス愛好家約100名の先生方が集まりました。開会式は9時から行われ、太郎丸浩実行副委員長の司会で、始めに参加者全員でこのたびの東日本大震災で犠牲者になられた御霊に黙祷を捧げました。その後、今大会会長の宮城県歯科医師会会長細谷仁憲先生の丁寧な御挨拶がありました。それから大会実行委員長の佐藤清がこの大会の為に、はるばる遠方より参加して頂いた先生方に感謝の言葉述べました。さらに、レフェリーの阿部三郎先生の試合形式のルールの説明がありました。

第1日目の種目は、年齢別で、男子ダブルス55歳以上、同65歳以上、同70歳以上とミックスダブルス100歳以下、同100歳以上の5種目が行われました。毎日の地域歯科医療に専念しつつ、自らの健康増進維持とストレス発散に、テニスを選ばれて診療の合間に練習を重ねてこの日の為に参加された先生方の試合は、各種目とも手に汗を握る白熱した試合でした。思う様に試合運びができず地団駄を踏んで悔しがる先生方、やはり相手方の実力が優ると勘忍してシャッポを脱ぐ先生方、思い通りに試合ができ納得しているが次の試合の為にいわゆる勝って兜の緒を締める先生方と、いろいろな光景が見られました。特に、70歳以上の種目で、京都市より震災の地、仙台に行って試合をしたいと参加して頂いた79歳の福田健先生(平成14年第22回全日本歯科医師テニス大会京都大会の実行委員長を歴任)と、二つ返事で快く参加してペアを組んで頂いた群馬県高崎市の84歳の手塚良一先生(平成12年第20回全日本歯科医師テニス大会群馬大会の実行委員長を歴任)の試合には敬服しました。特に手塚先生は、歯科医師としての仕事は引退してもテニスは週2、3回プレーし続けているとのことでした。御高齢にも関わらずテニスは生涯現役としてできる事を知り、我々若輩にとっては非常に励みとなりました。後日談になりますが、今までのテニス大会の上位成績表を紐解くと手塚先生は、55歳以上で優勝1回、65歳以上で優勝8回、それも第13回の愛媛大会から第20回の群馬大会まで連続で優勝、70歳以上で優勝5回と云う輝かしい成績を残し“常勝手塚”の異名をほしいままにしておられます。福田先生は70歳以上で優勝1回されてます。

第1日目の試合終了後、夜の7時より仙台ロイヤルパークホテルにて懇親会が行われました。斧田太郎先生の司会で進行はスムースにそして和やかな雰囲気のもとに行われました。特にこの日の為に、テニスの練習はほどほどにして頂き本番の演奏の為に厳しい練習をして下さった仙台ジャズフェス参加経験のある青柳光宏先生率いるノルムナルバンドの迫力有る演奏で懇親会を盛り上げていただきました。また、懇親会終了間際に手塚先生が私の所に来て、感謝と御別れのあいさつを交わされた時に、一枚の紙を私に託されました。そこには、懇親会に参加した時の手塚先生の心境を詠まれたと思われる句が書き記されておりました。
生も死も 任せて後生 楽の春    雅風
      
23日の第二日目は、宮城県歯科医師会副会長の岩淵吉昭先生の御挨拶のもとに前日と同じように開会式が約100名の参加者で行われました。この日は、生憎前日と打って変わって天気が悪く雨天の中ゲームが行われました。試合種目は、男子ダブルス一般、同45歳以上、女子ダブルスとそれぞれの3種目が行われました。幸いインドアのシェルコムせんだいも確保しておき使用できた為、大きな問題も無く試合が行われました。リーグ戦からトーナメント戦に進むにつれ試合のレベルも高くなり、見ごたえのある緊迫したゲームが多くありました。特に、宮城県の斧田太郎、太郎丸毅のペアは、初出場ながら良く健闘し一般男子ダブルス3位は立派なものと思いました。

宮城県参加者の成績
男子ダブルス一般男子       第3位 斧田太郎、太郎丸毅
ミックスダブルス100歳以下   優勝  斧田太郎、山本るみ
                 第3位 篠原誠、篠原智子
ミックスダブルス100歳以上   準優勝 佐藤清、佐藤弘子

最後に、大会開催に於いて全国の多くの先生方、特に福岡大会事務局の内田雄望先生と長野大会事務局の中島修先生のご協力に心より感謝申し上げます。また、当日の大会運営で宮歯テニスクラブの先生方とそのメンバーであり思い出の残る写真撮影をしていただいた鈴木正規先生そして宮城県女子テニス連盟の役員の方方に深く感謝申し上げます。

平成24年11月1日
第32回全日本歯科医師テニス大会宮城大会実行委員長   
宮城県歯科医師会テニス連盟会長                        佐藤清
この原稿は、平成24年(2012年)の宮城県歯科医師会の「宮歯会報」12月号(No.423)に掲載されました。

 
 
私のグレートサミットー富士山ー 
 
      私のグレートサミットー富士山ー           佐藤 清
富士山の外貌は、世界でも有数の美しい左右対称のコニーデ型火山である。四季折々の富士山の姿は、古き頃より人々の心をとらえた。万葉集の中に山部赤人の有名な短歌に「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」とある。また、江戸時代の浮世絵師の葛飾北斎の富嶽三十六景や、歌川広重の東海道五十三次などの富士山の絵は、特に有名で、それらは、フランスの印象派の画家モネやゴッホの絵に大きな影響を与えた。また、昔から富士山は、信仰の山として知られ多くの庶民が修験者のような服装をして金剛棒を片手に持ち、草鞋をはいて頂上を目指して集団で登山をしたという。現在の登山技術や登山装備の無い時代の登山は、想像を絶する難行苦行であったであろう。信仰心の力は、不可能を可能にする力が有るのである。また、大正時代には、岡田紅陽という有名な写真家が、四季を通じての富士山の姿を四六時中追い求めシャッターシャンスを逃すまいと、雨が降ろうが風が吹こうが寒暖の区別なく街頭に立ちつくして写真を撮影したという。そして、数々の美しい富士山の姿を写し撮る事に生涯をかけた。すさまじい執念である。

私は、富士山は小さい時より教科書等の写真で良く見ていたが、初めてこの目で見たのは学生時代の春休みに東京から大阪経由で九州鹿児島までの気の向くままの旅行に行く途中に列車の窓から大井川の付近で見たのが最初でした。冠雪を抱いた富士山の美しい姿に見惚れました。その富士山に一生の間に一度は登ってみたいと言う気持ちを最近抱くようになりました。
今年の7月31日から8月1日にかけて、そのチャンスが到来しました。今年の夏は、梅雨晴れが早く、昨年同様、猛暑を伺わせるような暑さで始まったが、中頃より台風の影響で暑さが続かず、梅雨に逆戻りしたような天気と、新潟県、福島県の両県に記録的な豪雨が有り、その影響で東日本の天気は、雷や短時間の集中豪雨で、富士山への登山は、途中で中止になるかも知れないと予想しながら朝七時仙台駅西口からバスでの旅立ちとなった。

案の定、富士五湖に差し掛かると富士山は、小雨と濃霧で、一寸先が見えない状態であった。しかし、富士スバルラインをそのまま進行し、登山口の吉田口五合目(標高2305m)まで、バスにて到着した。ここでしばし休息し、登山用の服装をして、装備を背負い、雨の中を山岳ガイドが先陣を切り、体力の無い人がそのあとに続き、列の中間ぐらいに添乗員が、その後に体力に自信のある人たちが順に並び、殿は添乗員で総勢三十四人の主に中高年の男女の精鋭部隊よろしく2列縦隊で、これから約3時間位かけて今日の目的の本七合目の宿泊小屋鳥居荘(標高2900m)へと向かった。
私は、列の中間ぐらいに並んだ。降りしきる雨の中を歩きながら、やや後悔の気持ちが起こり、キャンセルして参加しなければ良かったと考えたり、途中で中止になり引き返す羽目になるのではと、いろいろマイナス思考に陥りながら進んだ。最近の登山装備はすばらしく雨にあたっても中まで浸透させないゴアテックのレインスーツには、驚きでした。
しかし、長い時間には、雨のしずくがスーツを伝って靴の中に染み透り靴下が濡れてきて靴の中が、歩くたびにグチョグチョして、更に足の指先が、冷たくなってきました。
しばらくは、緑の木々が茂る山道でしたが、いよいよこれからのゆく手を予期させるがごとく、しばらくすると大きな溶岩や砂や砂利と言った無機質な風景に変化してきました。しかし、周りの乳白色の霧が、無機質な光景を覆い尽くし富士山の姿や頂上も全く分からない一空間を作り、その中を黙々と登り詰めました。途中、トイレタイムと休憩を数回取りながら登山道を登ること3時間位すると、霧が無くなり上を見上げるとかなり急斜面の溶岩でできた斜面のところどころに小さな宿泊小屋が見えてきました。小屋の窓からこちらを観察している人の顔が見る事ができたり、近くを歩いている人の様子が見える位、晴れてきました。我々の今日の宿泊場所は、ここから約五十メートル位の高さに有るちっぽけな小屋だという。もう一息と、溶岩の急斜面を急ごうとして登ると息苦しさを覚えるようになった。眼下を見ると何と、もくもくと流れる雲海が見え、気圧が低く空気もかなり薄くなっているという。何遍も大きく深呼吸しながら、漸く宿泊所に到着した。その日は夕食にカレーライスを食べて、暗くなると寝支度をした。夜空を見上げると、満天の空には多くの星が輝いていた。時々、旅行者の楽しみをいっぱい載せたと思われるジェット旅客機のパイロットランプが点滅して飛行していくのも観測できた。ひょっとしたら明日は、御来光が拝めるかもしれないと思いながらベッドに潜った。ベッドは寝がえりできないほどのすし詰め状態で緊張して寝付けなかった。後になって分かったのだが、すこし頭痛が有ったのは高山病の為らしい。うとうとしたかなと思いきや「出発しますので起きてください」と夜中の11時頃起こされた。急いで、寒くないように登山の服装をして靴を履こうとした時、靴下はビショビショに濡れ、靴の中は雨水が残っていて濡れてたが、代えが無くそのまま履きました。

夜中の11時30分頃、参加者が揃ったところで暗い登山道をヘッドライトで足元を照らして確かめながら、ここから約四時間かけて頂上(久須志神社、標高3720m)を目指し登りました。ほとんど溶岩でできた急で硬いごつごつした岩山を登りました。足を踏み外して滑落したならば命の保証は無いかもしれないという緊張感が疲労の蓄積を速めてゆくように感じました。頂上まであと二キロという標識をみてもう少し頑張ろうという気になりますが、ゆっくり登らないと、呼吸が苦しく、急ごうとすると胸が痛くなります。二ないし三歩歩いて大きく深呼吸しないと登れません。それと、なぜか休むと、高山病の為に頭痛が酷くなります。時間とともに太ももとふくらはぎと足首のあたりに張りと違和感が出てくるようになりました。岩場が過ぎ、砂場で道幅が少し広くなった登山道に出ると道の両端には、息が苦しくなり携帯の酸素ボンベで酸素不足を補うため休んでいる人や、高山病が酷くギブアップして座り込んでいる人がところどころに見られるようになりました。山岳ガイドは、いつもおおきく深呼吸をして酸素を沢山取り込むよう参加者にアドバイスしてくれました。いわゆる富士山の胸突き八丁の付近に差し掛かると頭痛と疲労困憊のため、あとどれ位登ると頂上、頂上はまだか、早く到達してほしいと、自問自答しながら気力を振り絞りながら登りました。途中、休み休み、眼下を見ると、ところどころに街の灯りが見えるようになり、挫けそうになる気持ちを、励ましてくれるかのように美しく煌煌と輝いて見えた。

頂上には、漸く、午前4時20分頃ついに到着しました。それから、御来光の瞬間を良く見ることのできる場所で待機しました。待っている時は、かなり寒さを感じ持ってきたダウンジャケットを着込んだ。夜の帳が徐々に取り払われ、周辺は明るさを増し四方が良く見渡せるようになった。頂上より眼下を見ると灰白色の雲海が、朝凪の海を思わせるほど静かな波のように横たわっていた。そのはるか地平線は、黄赤色に薄明るくなり太陽が昇りそうで、なかなか出ず、はやる気持ちをじらすかのようであった。4時50分頃突然、八月の真新しい朝日の、神々しくまぶしい光が雲海のはるか地平線より出現しました。感激の瞬間である。その時、突然、私の脳天に、リヒャルト・シュトラウス作曲、交響詩「ツァラツストラはかく語りき」(スタンリィー・キューブリック監督の映画、2001年宇宙の旅、のイントロで流れたお馴染の有名な曲)が響き渡りしばし陶酔しました。そして、 3700メートル級の高地に無事登り御来光を拝める幸運に感謝しました。参加者全員で万歳を三唱して喜びあいました。また、このたびの東日本大震災の犠牲者の御冥福を静かにお祈りしました。

 久須志神社近辺は、上野のアメ横並みに人で混雑しているのには困惑しました。そこは、休息所が連なって立っており、その中の一つの東京屋と言う所で休憩しました。私はかなり疲れているのと、高山病の為か、胃がむかむかして固形物を入れたならすぐ戻しそうな気分でした。液体ならばなんとかなりそうで、いくらかでも養分を取った方が良いと考えて、味噌汁が有りましたので、注文してそれをすするのが精いっぱいでした。具の少ない味噌汁でも温かい液体は、体を温めいくらか体力の回復にプラスになったような気がした。他の人は、お腹がすいたと言って、ラーメンとか食べていました。疲れを癒したのち富士山頂の噴火口の周囲を見に行きました。下は噴火口で周りは小高い丘が連なり今いる丁度真正面には一番高い剣が峰(3776m)も見えました。そこには、以前ドーム型の気象測候所が有りましたが今は一部の建物だけが残っていました。ここから歩いて約一時間三十分位掛かるらしい。ここで、さらに上を目指して登るか、それとも下山するかまさに剣が峰に差し掛かりましたが、疲労が酷く又の機会にしました。
 
いよいよ、頂から吉田口五合目の休憩所まで下山と言う事になりました。登りの登山道とは、別のコースの下山道を降りる事になります。下山時間は、普通に降りて約四時間位掛かるという。走って下って二時間位で降りる猛者もいるという。下山道は砂地に小石が混じっており、気をつけないと足を取られて滑り転ぶ危険性があり、しっかりと地べたを両足で抑えて確かめつつ下りました。その時、太ももの筋肉と膝にしっかり力を入れないと、足を取られて何度も滑って転びそうになりました。太陽が照りつけ光をさえぎる物が無いために、体が暑くなり着ているダウンジャケットを脱ぎました。下山者には、カラフルな登山服装をした山ガールも多く見られ、殺風景な下山道に彩りを添え、見る人を楽しませてくれました。私よりも結構軽快な足取りで下山しているのを見て悔しい思いをしました。昨日、睡眠を十分取ることができず夜を徹しての強行軍のため、次第にふくらはぎがパンパンに張ってきて、足取りが重く、頭痛もまだ続き、さらにバックパックを長い時間背負っているためか、肩が凝ってきたりして、後方から下りてくる人にどんどん抜かれていくのが分かりますが、どうにもなりません。最悪の状態でした。いっそ、担架に運ばれて下山できたらどんなに楽かなと馬鹿な考えを起こしたり、添乗員の話によると救急隊を呼ぶと云十万のお金が掛かると言う事を事前に聞いていましたので、考え直したりと、いろいろ心の葛藤が始まりました。まさに自分との戦いである。考えてみると普段の生活では、せいぜい、一日平均して三十分位真面目な歩行で歩き、歩数計で約四千歩歩けば良い方である。それが、一挙に約四時間連続して歩行し、それも急斜面を下ってである。現代生活は便利にできているため、如何に自分の足を使って歩く生活から離れているか、今更ながら反省しきりで有るが後の祭りである。目的の場所までとにかく、歩け歩けと自分に云いきかしてとにかく頑張りました。隊列を組まない自由な下山であったので、参加者とはもうばらばらで逸れてしまいました。ついに、目的の吉田口五合目の休憩所には、参加者の中で真ん中位でしょうか、自力で到着しました。参加者の内、高山病が酷いため途中落後者は、一名いたそうです。

北大の大先輩である登山家でプロスキーヤー三浦雄一郎氏は、エベレスト山(チョモランマ)の登頂を試みる時、数カ月前より普段の生活で街に出かける時、両足首に鉛の錘を付けて足腰を鍛えて準備した事を、以前テレビにて見ました。それなりに準備をし、体力をつける事が大切と強く思いました。三浦プロに於いて然り、況や、己に於いてをや!である。
イギリスの登山家で、ヒマラヤ山脈に三度足を入れ、エベレスト山(標高8848m、桁違いに高い)に登頂を挑み、途次、行方不明になり、遺体が1999年に発見されたジョージ・マルローに、生前「どうして山に登るのですか?」という質問に「そこに山が有るから」と答えたという有名なエピソードがある。登山経験が豊富で登山すればいつでも頂上を制覇できるという自信が、そういう風に言わせていると推察できますが、比較するのがおこがまし程、私のような、にわか仕込みの野暮な似非登山家にすれば未知の体験ゾーンである3700m級の、空気が薄く気圧が低いために高山病にかかる人が多い山にチャレンジして、さらに、本当に頂上に到達できるか登ってみないと分からない確率の低い私にとって、幸運にも、頂上制覇できた時は、格別なものです。
下山の後、バスにて近くの某温泉ホテルに行き、そこのお風呂の温泉で汗を流し、遅い朝食を取りました。仙台へ帰宅するバスの中でしばらくすると、なぜか自然と目頭が熱くなり涙がぽろぽろ流れてきました。最近、確かに歳のせいで涙もろく、そして涙腺その他のしまりが悪く、そのためかとも思いましたが、そればかりでなく、今考えますと、日本一高い不二の山で、日本のシンボルである富士山の登頂と下山を無事果たし、渾身の気力と体力を振り絞って成し遂げたという、安堵と、達成感と、充実感と言った複雑に込み入った潜在意識がそうさせたのかもしれません。いそいで、隣の人に知られないように、目にゴミが入ったような仕種をして、ごまかしたりしました。

そのうち、一仮泊二日でこれまでの蓄積したストレスと疲労の為か、知らず知らずのうちに、深い眠りについていました。眠りの中の私の脳裏では、ピエトロ・マスカニ―ニ作曲、歌劇カヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲の美しい旋律が自然と流れ酔いしれていました。
なおこの全文と参考写真は、宮城県歯科医師会会報の宮歯会報(2011年、no.409)に掲載しました。

 
 
ボットからトラックバックURLを保護しています
頑張ろう日本!
 
このたびの未曾有の巨大地震の災害におそわれ幸いにも余り被害もなく無事に過ごす事ができました。その間、多くの方から励ましとお見舞いの電話やメールをいただきました。ここに、心温まるお気遣いの言葉に対し改めてお礼申し上げます。

そして、不幸にして亡くなられた多くの方々にお悔やみ申し上げます。また、被災を受けた多数の方々にお見舞い申し上げます。

3月11日(金曜)の午後14時46分、ちょうどその時、診療をしてました。突然、激しい横揺れが起こりました。今までですと短い時間で済みましたが、今回は非常に長い時間激しく揺れ、これ以上揺れが続くと、異常事態が起こるのではと頭によぎる程でした。

鉄筋の平屋でしたので、まず大丈夫だと分かっていているとしてもです。
私は、診療用椅子に座ってましたが、あたかもあらくれの馬の背中に乗ってロディオでもしてるような感じで椅子から振り下ろされそうでした。そばの診療台につかまり事なきを得ました。治療していた患者さんには、無事にお帰りになっていただきました。

 突然停電したので、非常事態と判断して、診療は、切りのいい所で止めました。自宅も心配でしたのですぐに帰りました。家の周りは、一見異常は無いように見えましたが、良く調べたところ外壁は、ところどころ亀裂が見られました。タイル張りの所が一部割れて剥がれてました。それから、家の一部の窓ガラスのサッシのロックしてあるところが外れて、締めて有るはずの左右のサッシが約20センチほど移動して開いていたのには驚きました。さらに、中に入って驚きました。壁紙がところどころ裂けていました。居間に有るピアノは、約50センチほど南北の方向に移動してました。横揺れの激しさを物語っていると思いました。

ダイニングキッチンに有るサイドボードの扉は、全部開いており、床一面に足の踏み場もない位に、欠けたグラスや、皿の破片が飛散してました。テーブルに載せて置いた本や雑誌や新聞も吹き飛んでいました。私の勉強部屋に有る安物の本立ての直方体のラックは、への字に歪んで、並べて有った本は床に散乱してました。しかし、東西方向に立てていたラックは、倒れているだけで歪んではいませんでした。地震の揺れる方向が南北方向の揺れが大きかったのだなと再確認しました。

 ライフラインの途絶えた夜になると、電気の無い所で、家族とともに懐中電灯を明かりにして、食事をしたり、携帯ラジオで地震の被害の情報を聞き入りました。ラジオは、寝るまで掛けっ放しにして不安な夜にいくらかでも正確な情報を得るように努めました。断水の為、非常用に買っておいたペットボトルの飲料水が非常に役立ちました。これを料理の時利用できました。また、都市ガスが、止まり使用できませんので、やはり携帯用のガスボンベと携帯用のガスコンロが有りましたので、煮たり沸かしたりでき、今まで時々利用していたのが役に立ちました。

それと、水洗トイレの使用ができず、大(?)の方を流すことができなく困りました。このときは、簡易トイレが有ると便利だと思いましたが有りませんので、ビニールの袋が大変役に立ちました。利用方法は、推して知るべし。たかがビニール袋、されどビニール袋です。

教訓として、飲料水と非常食と懐中電灯と乾電池と携帯ラジオと携帯ガスボンベと携帯ガスコンロとビニール袋は、大切と思いました。常に災害の事を考えて、備えあれば憂いなしとつくづく思いました。

 二日間の停電の後、漸く電気が使用できるようになり、テレビにて被災の状況を具体的に把握できました。太平洋沿岸に面した市町村の家や建物が、勢い良く膨張した海面が、強烈な波となりなだれ込み、あっという間に、次々に家をなぎ倒し呑みこんでいくさまに、長い間人々が築き上げた物を、いとも簡単に破壊し尽くす津波の恐ろしさにただただ驚愕しました。さらに、その時、逃げ遅れた多くの人々の尊い命が波にさらわれ呑まれて失われたことを知りました。時々刻々と被害状況が報道されました。それによると、国内史上最大のM9.0の三陸沖を震源とする地震で、死者と不明者が2万人超で、31万の人が避難生活を強いられているとの事でした。福島県の第一原発が、津波の被害で操作不能になり放射能漏れを起こしている事も知りました。

今現在、日本国は、地震、津波、放射能漏れと言う三つの国難にさらされています。早い復旧、復興を望みます。頑張れ日本!

佐藤 清

 
 
ボットからトラックバックURLを保護しています
仙台の冬景色
 
 秋の訪れと共に木々の葉はグリーンからイエローやオレンジに衣替えし、色鮮やかに…。
 木枯らしが吹く頃になると枝葉はブラウンに色褪せて、やがて落葉し丸坊主に…。
 仙台の冬景色はチャコールグレーかセピアカラーとなり、時々雪が降るとスノーホワイトの世界となり、ユーモアあふれる雪の綿帽子があちこちにみられロマンチックに…。
 慌ただしい年の暮れにベートーベン作曲交響曲第九「歓喜」が大合唱されその年の一年は時のもずくとなり記憶の中に淡く消え去る…。

 初日の出が美しく地平線より顔を出すと同時にドボルサーク作曲交響曲「新世界」が新しい希望と夢をのせて鳴り響き新年のベールが開かれる。
 しかし、冷たく長い冬の夜はしばらく続き、深い眠りの中でシベリウス作曲交響詩「フィンランディア」の重厚な響きがこだまし、憂鬱な時間が流れる。
 二月も末日になると、重苦しい交響詩も終曲を迎える。

 三月、春の朝の日差しが快く感じられ、希望と生命力が湧いてくる。(spring)
ビバルディ作曲「四季.春」かモーツアルト作曲「アイネクライネナハトムジーク」がどこからともなく鳴り響き、それと同時に小鳥のさえずり、木々の新芽が萌えいずる。新緑の芽は一雨ごとに大きくなり木々の葉のモスグリーンの世界が心を落ち着かせる。
                             
                                                                                                                   佐藤 清

 
 
ボットからトラックバックURLを保護しています
第28回全日本歯科医師テニス大会
 
 2008年11月29日(土)、30日(日)に主催:全日本歯科医師テニス連盟 主管:埼玉県歯科医師テニス連盟のもとで、埼玉県熊谷市上川上にある熊谷スポーツ文化公園熊谷ドームで硬式テニスの歯科医師全国大会が催されました。
 東北新幹線で仙台から大宮へ。上越新幹線に乗り換えて15分で熊谷です。熊谷市は山形市の持つ真夏の最高気温を塗り替えたところとして有名です。
 会場は平成16年10月に開催された埼玉国体のメイン会場の隣に位置するドーム型運動施設で、室内オムニコート14面において硬式テニス競技が行われました。
 競技種目と参加組数は以下の通りです。
   
男子ダブルス      一般    35組
            45歳以上 32組
            55歳以上 13組
            65歳以上  2組
            75歳以上  4組
女子ダブルス             3組
ミックスダブルス    100歳未満  4組
            100歳以上  9組

 参加県は南は鹿児島から北は青森まで、総勢212名でした。宮城県からは私ども佐藤清夫婦がミックスダブルス100歳以上に参加し、フーフー言いながら優勝を勝ち取りました。 
 夜に行われたレセプションではビールにて乾杯の後、テーブル形式にて食事、その後歓迎の余興として熊谷の音の文化を支える熊谷陣屋太鼓保存会約20名により大、小、中の和太鼓の共演が披露されました。一斉にバチでたたかれた太鼓の高鳴る音は五臓六腑に響き、大変迫力のある音に度肝をぬかれました。戦国時代、陣中にて和太鼓をたたき自陣の兵士の士気を高める一方、それを聞いた敵陣は音のド迫力に腰砕けになり逃散したに違いないと勝手に想像もしました。それにしても、一糸乱れぬ高鳴るリズムは不思議と感動を覚え、日本の音の文化の素晴らしさをあらためて認識し、楽しく聞き入りました。
 その後日本を代表する元テニスプレイヤーの坂井利郎氏と小泉幸枝さんのテニスの4大大会(グランドスラム)に出場した時のエピソードと、これからの日本を代表し世界を目指している若手プレイヤーのお話をされ大変興味深く聞き入りました。
 多数の歯科医師の参加による歯科臨床についての学会が多々ありますが、このような臨床の傍らで、全国から一堂に会し、硬式テニスで技術を競い、汗を流し、親睦を深めるのは大変有意義であり、現在まで続いている事は今までの諸先輩の努力の賜物であり、大変貴重だと思います。この伝統を消さないようにしたいものです。